「有楽町で逢いましょう」フランク永井・東京都のご当地ソング/有楽町といえばニッポン放送ですが。

有楽町で逢いましょう
ゆうらくちょうであいましょう

フランク永井(ふらんくながい)さんの、1957年(昭和32年)の楽曲。

 

作詞:佐伯孝夫
作曲:吉田正
歌:フランク永井

 

 

 

 

「有楽町で逢いましょう」の歌はもともとは、そごうのコマーシャルソング(キャンペーンソング)としても使用された歌でした。
大阪が本社のそごうが、東京進出で1957年5月予定の「有楽町そごう」開店(2000年9月24日閉店)に際し、アメリカの映画「ラスヴェガスで逢いましょう」からタイトルを拝借して「有楽町で逢いましょう」とのキャッチフレーズを作りキャンペーンを行ったそうです。
「有楽町で逢いましょう」は当時の流行語になり「週刊平凡」に同名の連載小説を連載するなどしキャンペーンが大成功。
有楽町そごうが開店した直後に「有楽町で逢いましょう」の歌が作られフランク永井さんが歌いました。

その後、映画「有楽町で逢いましょう」が翌1958年(昭和33年)1月に封切されました。

 

 

有楽町で逢いましょう フランク永井 昭和33年 ビクター

 

 

 

映画「有楽町で逢いましょう」

劇場公開日 1958年1月15日

あらすじ

フランス帰りの新進デザイナー小柳亜矢は、パリ仕込みの奇抜なデザインで大阪の女性をあっと言わせた。意気揚々、彼女はその夜の列車で東京に向った。
偶然隣りに乗り合わせたスポーツで鍛えあげた逞しい体の建築技師篠原練太郎の足を踏んだのも気がつかない興奮の仕方であった。
それでも練太郎が、亜矢が花形デザイナーとして紹介されている週刊誌をこともなげにまるめ、駅弁にパクつくのを見て、柳眉を逆立てるのだった。
数日後、亜矢が日ごろ可愛がっている女子短大生篠原加奈が、亜矢の入念なデザインの服を兄に散々酷評されたと仕立直しにやって来た。
ちょうど居合せた亜矢の弟、大学のフットボール選手の武志はどれでも好きなのをもってゆけよと加奈に言って、すっかり仲好しになった。ところがこれを知った亜矢はカンカンになった。……挙句、加奈の兄のところに押しかけたが、意外にも兄とは練太郎のことだった。
・・・

 

監督
島耕二

キャスト
京マチ子・川口浩・北林谷栄・菅原謙次・野添ひとみ ほか

 

 

映画の動画を観てみました。
昔の映画なので単純でそんなに面白くもないのかな? と思っていましたが、最初から引きつけられ一気に観てしまいました。
当時のデパートの様子、東京の様子、女子大生の寮や大学生の感じ、喫茶店(ティールーム?)も見ていて面白いです。
女子大生が、デザイナーが直接デザインして仕立てた服を着るとは、相当裕福なのかな?
とか
上から何やらいろいろ降ってくる危険な工事現場にハイヒールで乗り込んで行くとか、今じゃ考えられないなー、
とか
いろんな場所でマッチでタバコを吸って、あの使用済マッチはどうしているのかな?
とか
いろいろ考えてしまいましたが、それが当時の普通だったのかな?
と考えたりしてます。

 

映画では「有楽町で逢いましょう」の合言葉は、大学生どうしの合言葉だったのですね。
その後、おとなたち(笑)の言葉にもなったようですが。

 

 

 

有楽町マリオン前に「有楽町で逢いましょう」の石碑(歌碑)があるようです。

 

有楽町センタービル(有楽町マリオン)
〒100-8488
東京都千代田区有楽町2丁目5−1

 

 

 

 

 

ところで、有楽町といえばニッポン放送ですが、
岡村隆史さんが有楽町で神輿に担がれる日はいつなんでしょうねー?(笑)
待ち遠しいです。

 

 

「有楽町で逢いましょう」歌ってみました。
最後の「有楽町で あーいましょうー♪」の所しか知らなくて、探り探り歌ってます(笑)

 

 

ありがとうございました。

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