「豪商一代 紀伊國屋文左衛門」三波春夫・和歌山県のご当地ソング/解説&歌ってみた

長編歌謡浪曲
豪商一代紀伊國屋文左衛門
ごうしょういちだい きのくにやぶんざえもん

三波春夫(みなみ・はるお)さんの、1966年(昭和41年)の作品。

 

作詞:北村桃児
作曲:長津義司
歌:三波春夫

作詞の北村桃児(きたむら・とうじ)は、三波春夫のペンネーム。

 

 

 

紀伊國屋文左衛門のミカン船を題材にした長編歌謡浪曲。

 

1966年(昭和41年)の第16回NHK紅白歌合戦の大トリで歌唱。
三波春夫さんは、この年9回目の出場でトリは4回目、大トリは3回目。

 

 

豪商一代紀伊国屋文左衛門 三波春夫

 

 

 

紀伊國屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)とは

 

江戸時代の商人。
略して「紀文」(きぶん)と呼ばれ、「紀文大尽」と言われた。
20代の頃、紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられている。

 

 

ミカン船伝説

 

ウィキペディアより

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文左衛門が20代のある年、紀州は驚くほどミカンが大豊作だった。
収穫されたミカンを江戸に運ぼうとしたが、その年の江戸への航路は嵐に閉ざされていた。
江戸へ運べなくなり余ったミカンは上方商人に買い叩かれ、価格は暴落した。
当時江戸では毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」があった。この祭りでは、鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて地域の人に振舞う風習があったが、紀州から船が来ない事でミカンの価格は高騰していた。

紀州では安く、江戸では高い。
これに目をつけたのが文左衛門だった。早速文左衛門は玉津島明神の神官で舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した。大波を越え、風雨に耐えて何度も死ぬ思いをしながら、文左衛門はついに江戸へたどり着く事が出来た。
この時の様子が「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船」とカッポレの唄に残った。

ミカンが不足していた江戸でミカンは高く売れて、嵐を乗り越えて江戸の人たちの為に頑張ったと、江戸っ子の人気者になった。
大坂で大洪水が起きて伝染病が流行っていると知った文左衛門は、江戸にある塩鮭を買えるだけ買って先に上方で「流行り病には塩鮭が一番」と噂を流し上方に戻った。噂を信じた上方の人々は我先にと塩鮭を買い求め文左衛門が運んできた塩鮭は飛ぶように売れた。紀州と江戸を往復し大金を手にした文左衛門は、その元手で江戸に材木問屋を開く。こうして文左衛門はしがない小商人から豪商へと出世、富と名声を掴んだ。

この伝説は文左衛門の在世中および死去間もない時期の資料には見えない[2]。竹内誠は、この伝説は幕末に刊行された小説『黄金水大尽盃』に描かれたもので史実ではないとしている

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歌詞より

 

和歌の浦
わかのうら

和歌山市日本遺産PR動画「絶景の宝庫 和歌の浦」

 

 

 

玉津島明神
たまつしまみょうじん

 

玉津島神社(たまつしまじんじゃ)

和歌山県和歌山市和歌浦に鎮座する神社

〒641-0025
和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目4−26

 

 

 

 

「豪商一代 紀伊國屋文左衛門」、素晴らしいアコーディオン演奏で歌ってみました。

セリフは入れようがないのですが、やっぱりムリクリ関係ない部分のセリフを入れてしまいました。

実は、島津亜矢さんの歌で覚えました。
島津亜矢さん、ほんとにカッコイイイ!

 

 

ありがとうございました。

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