「お吉物語」天津羽衣  静岡県のご当地ソング 歌ってみました セリフ入り

静岡県のご当地ソング、天津羽衣さんの「お吉物語」(おきちものがたり)を歌ってみました。

(歌ってみた動画は一番下)

 

 


天津羽衣 / 定番ベスト シングル: : お吉物語 / 黒船哀歌 【CD Maxi】

 

 

 

お吉物語

 

作詞:藤田まさと(ふじた・まさと)
作曲:陸奥明(むつ・あきら)
編曲:福島正二(ふくしま・しょうじ)
歌手:天津羽衣(あまつ・はごろも)

 

 

「お吉物語」として知られるものは

村松春水の「実話唐人お吉」をもとに、十一谷義三郎が、昭和3年(1928)「唐人お吉」を発表し、
翌年「時の敗者唐人お吉」が東京朝日新聞に連載された後、「お吉」は戯曲、映画にもなり、下田の名とともに全国に知られるようになったそうです。

 

天津羽衣さんの「お吉物語」の歌は、実話をもとにした歌ということになりますね。

天津羽衣さんは、お吉物語の歌謡浪曲も歌っています。

 

 

下田市のホームページより抜粋

 きちは、天保12年(1841)、愛知県知多郡内海に船大工・市兵衛、母・きわの次女として生まれます。(幼少のころに下田に移り住む。)幼くして市兵衛を失ったきちは、下田に入港する船の船頭たちの洗濯女として生計を支えます。きちが16才のとき、下田において米国総領事として着任していたハリスが健康を害し、看護婦を要求したのに対して、日本側がこれを拒絶すると、条約談判が破談となる危機を迎えます。あわてた日本側は、ハリスのもとに「きち」を、オランダ人通訳ヒュースケンのもとには経師屋平吉の娘「ふく」を仕えさせることとしました。「きち」には支度金25両、年手当120両が報酬として、渡される約束となりました。(当時の大工の手間賃が1ヶ月で約2両程度だったといわれる。)
しかし、きちは三夜で暇が出され、玉泉寺通いは終わります。その理由は、きちがハリスの世話をしている最中に、腫れ物ができていたために、自宅療養を仰せつかったとのことであるが、全快後も玉泉寺でハリスに仕える機会はなかったようです。
解雇後のきちは、異人と交わったという偏見により、船頭たちの洗濯ができなくなり、暮らしに困り、下田領事館の閉鎖とともに、下田から姿を消します。
明治元年(1868)、横浜で大工の鶴松と同棲しますが、明治4年(1871)には下田に戻り、女髪結いを営みます。しかし、周囲の偏見からか経営も思わしくなく、酒に溺れたこともあって三島へ。明治15年に再び下田に戻り、小料理屋「安直楼」を営みますが、酒に溺れる自暴自棄の生活から、破産に追い込まれ、晩年は物乞いをする生活だったようです。
病気を患ったきちは、角栗の淵(かどくりのふち・現在のお吉が淵)に身を沈め、引き取り手のなかったきちの亡骸は宝福寺に葬られました。(享年50歳)
物語の「唐人お吉」と実際のお吉との間には、少なからず差異がありますが、その哀しい生涯を供養するため、お吉の命日である3月27日には、お吉ヶ淵と墓所である宝福寺において、毎年供養祭「お吉祭り」が開催されています。

 

日本開国に貢献した「唐人お吉」芸者衆が花を捧げ冥福祈る

 

 


唐人お吉物語 / 竹岡範男 【本】

 

 

 

地名に関する歌詞に出てくるのは
「下田港」のみです。

下田港(しもだこう)ですが、歌詞の中では「しもだみなと」

 

下田港
静岡県下田市にある港湾

幕末にペリー艦隊が入港し、開国の舞台にもなった歴史の古い港

 

 

 

YouTubeで歌ってみました

「お吉物語」天津羽衣 cover 歌ってみた Full 歌詞付き 静岡県のご当地ソング セリフ入り Japanesesong

 

 

ありがとうございました。

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