「岸壁の母」菊池章子/二葉百合子ほか・京都府のご当地ソング

 

岸壁の母
がんぺきのはは

 

は、
菊池章子さんが1954年(昭和29年)発売のレコード
その後
二葉百合子さんが1971年(昭和46年)にアルバム「二葉百合子の涙の歌謡劇場」でカバーし、
1972年(昭和47年)にシングルカット。
その後も多くの歌手がカバー。

 

作詞:藤田まさと
作曲:平川浪竜

 

 

二葉百合子さんのセリフ入りの歌が有名なので、二葉百合子さんの歌だと思っていましたが、
その前に菊池章子さんという人がレコードを出していたんですね。

「岸壁の母」のモデルは端野いせ さん。

ウィキペディアより
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明治32年(1899年)9月15日、石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれ、函館に青函連絡船乗組みの夫端野清松、娘とともに居住していたが、昭和5年(1930年)頃夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和6年(1931年)に上京する。新二は立教大学を中退し、高等商船学校を目指すが、軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。

終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。
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この歌を聴いて岸壁で待っていても帰らない息子は戦死したのだと誰もが思っていたのでしょう。
ワタシも最近までそう思っていました。
ところが、息子さんの新二さんは生きていたということがわかったらしい。
そのことがわかったのは、母のいせさんが1981年に亡くなった後の2000年(平成12年)。
母親の勘で息子は絶対に生きている、とわかっていたのですね。

新二さんは、

ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていた」

と!

 

しかし、息子の新二さんは母が舞鶴で待っていることを知っていましたが、連絡をすることもなく、帰ることもなかったそうです。
何か事情がありそうですが…悲しい。
新二さんは、1926年生まれですから、もし今生きているとしたら90歳代になっています。

 

 

菊池章子さんの「岸壁の母」

岸壁の母/菊池章子(オリジナルシンガー)/復員船実景/舞鶴港

 

 

二葉百合子さんの歌謡浪曲「岸壁の母」

岸壁の母 歌謡浪曲 二葉百合子 2011

 

 

そして

 

セリフが恥かしい…

 

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